プロ野球ファンなら、誰もがその名を記憶してるに違いない、スタルヒン投手。読売巨人軍のエースとして活躍した、彼の名を冠した球場が旭川市にある。

伝説の大投手の名を永遠に刻むスタルヒン球場
北海道旭川市にある「スタルヒン球場」は、日本のプロ野球史上初めて300勝を達成した、ヴィクトル・スタルヒンの名を冠した球場です。 スタルヒンは、大正5年にロシアで生まれた白系ロシア人。ロシア革命によって祖国を追われて日本に亡命し、9歳のときに家族と共に旭川に定住しました。小学校時代からずば抜けて背が高く、スポーツが万能。やがて旭川中学(現旭川東高校)に進むと、野球部で大活躍し、全国的に注目されるようになりました。そして大日本東京野球倶楽部に入団。プロとなり、巨人軍で活躍しました。 かつては旭川市営球場と呼ばれていたこの球場は、昭和57年に「スタルヒン」の名が付けられ、旭川中学で野球部だった人たちが中心となり、スタルヒン像を建てました。

国籍を持たなかったスタルヒンの苦悩
亡命してきたスタルヒン一家には国籍がありませんでした。このことが、彼の人生に常に暗い陰を落とすことになります。 旭川でのスタルヒンは中学の先生や友人など周囲の人たちの愛情に包まれて、天真爛漫で幸せな日々を送っていました。そんなスタルヒンは、野球部仲間と離れ、中学を中退して東京野球倶楽部に入団することに消極的だったといいます。「スタルヒンの夢は、中学の仲間と甲子園に出場することだった。東京へは行きたくないと言っていた」と野球部時代の友人は話します。旭川中学は、昭和8年、9年と甲子園を目前に全道大会決勝で破れ、スタルヒンは長身を折り畳むようにして泣き崩れたといいます。翌年こそはの夢を果たせないままに東京へ行くことは、さぞや無念だったことでしょう。東京行きには、無国籍だったことや、当時父親が事件を起こして服役中だったこ とが微妙にからんでいたといいます。野球部のだれにも知らせることなく早朝の汽車でひっそりと旭川を発ったスタルヒンでした。

高校球児を見守るスタルヒン像
スタルヒンは、巨人入団後、常にエースとして投げ続け、昭和13年から18年まで続く巨人6連覇に大きく貢献。しかし、やがて太平洋戦争の激化に伴い、「須田 博」と改名を余儀なくされたり、「敵性人種」として軽井沢に抑留されるなど、外国人ならではの苦労を強いられました。戦後に復帰してからは、弱小球団を転々としながらも昭和30年にトンボで日本プロ野球史上初となる通算300勝を達成。同年39歳で引退。 その翌々年、自動車を運転中に東急玉川線の電車と衝突し即死。折りしもその日は、旭川中学の東京同窓会が行われる日だったといいます。 スタルヒン球場は、高校球児が甲子園出場を懸けて闘う北・北海道大会の舞台。かつての自分と同じように、甲子園を目指して無心に白球を追う高校生たちを、スタルヒン像が見守っています。 ************* 旭川スタルヒン球場 北海道旭川市花咲町3丁目 花咲スポーツ公園内


「黄金バッテリー」と呼ばれた吉原正喜捕手と。


 


日本プロ野球史上初の300勝を達成。通算303勝、防御率2.09
※モノクロ写真(上3点)はナターシャ・スタルヒン著「白球に栄光と夢をのせて」(ベースボール・マガジン社)より

 


上川哲治の名前も見られる東京巨人と大映スターズ戦の寄せ書き

 


足元のプレートに「スタルヒンよ永遠に」と書かれた球場入口に立つブロンズ像